こいつ何者?
HN:straycat。猫。猫田。bishop等。
1985年11月22日生。B型。 身長177(猫背)。体重秘密。 性格は極度の自己中。内弁慶。 自他共に認める精神病患者。 酒乱。ビール・焼酎・日本酒○。ウィスキー×。 喫煙者。セブンスターを愛吸。 性癖はM。だからラゴデッサに刺されて斬られてカ・イ・カ・ン。 カテゴリ
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仕事の途中、余りにも暇なため鬱思念駄々漏れ。 だが、終わると開放感のため一口茶屋で鯛焼きなんて買っちゃったりして。おめでてぇな。 お好み焼き味は温かいままで食えてとても美味だったが、ピザとチョコバナナは冷えてベッタリしてしまい、不味かった。温かいうちにお召し上がりくださいってこった。 大麻二本目はそんな鬱イメージが生み出した”存在意義”について。 仕事場での”存在意義”から、日常での”存在意義”について、諸兄はどのような考えをお持ちだろうか。今一度、考えてみて欲しい。 自らの役割が生まれたとき、それはイコール”存在意義”になる。 では、その役割とは、誰が、どのようにして決めたものなのだろうか。 まず、一般的な店員の役割。 私達が客として店員にアプローチする場合は、彼らにどのような役割を求めているだろうか。 レジ打ち。品出し。欲しい商品が見つからなかった時の案内役。この程度だろうか。 では、店員の立場に立ったとき、自らの役割を仕事内容として明確に提示されたとき、はたして自分は客に求められる役割を全て果たすことは出来るのだろうか。 私が以前バイトしていた職場では、品出しメンバーとレジ打ちメンバーが明確に分けられていた。後に人手不足からその仕切りは曖昧になるのだが、その仕切りを飽くまで明確にしている店舗ならばどうだろうか。 客がレジに並ぶ。休止しているレジはある。品出ししている店員もいる。 待たされている客は、「あの店員、レジ打ってくれないかな」と思うこともあるだろう。 だが、その店員にしてみれば、「俺は品出しが仕事であって、レジを打つのは別の奴の仕事だ」 と思うことだろう。 彼は存在意義を果たしていることになるだろうか。ならないのだろうか。 今度は日常での”存在意義”に焦点を当ててみよう。 父親の役割とは、何だろうか。 私がジョージ秋山氏の作品「浮浪雲」の中で感銘を受けた言葉の一つで、父から息子に「私はお前を養っているのではない。育てているのだ」という台詞があった。 現在、父親というものは軽視される風潮にあるようで、私のようにいい年をした子供というものは父親に対してまともな口の利きかたはしていないものと推測する。 そういう家庭での父親というものの役割は、哀しいかな、いい言葉で繕って「働き蜂」。明け透けに言って「給料袋」であろう。その場合、家庭が成り立つ範囲内で金を稼いでいればまぁ合格。それ以下は”存在意義”を果たしていない、と言える。 ここから複雑になるのが、「しなくていいことをしたがためにそれが自分の”存在意義の片鱗”になってしまう」というケースについてである。 日本人の特徴に、今は廃れ気味である「勤勉」というパッシブスキルがある。 このスキルが戦後、日本という国を大きく、急速に発展させたわけなのだが、諸兄等は職場で暇なとき、どのような行動をしているだろうか? 自分の仕事がないので携帯をいじる。寝る。漫画を読む。…神経が図太く、面の皮が厚い方々はよろしいであろうが、私のような繊細な神経の持ち主は、なるべく職務を行っているように見せかけるよう務める事をしばしば選ぶ。デスクワークならば書類整理でもしていればいいようなものであるが、実際の職務が既に完遂されている場合はどうしたらいいだろうか? OLであれば、お茶酌みなどがいい例だろう。あれは既に仕事として認知されているが、最近はそれを否定する声もあると聞く。 つまり、「しなくてもいいこと」なのである。 「しなくてもいいことをしたがためにそれが自分の”存在意義の片鱗”になってしまう」ということは、正にその事なのである。これは”連続が起こす慣れ”の様なもので、連続して起こる恩恵についてはしばしばそれが当たり前のことであると誤認してしまいやすい。 仕事が暇であるからお茶を出した。それが何日か続いて、自分の仕事を行っていた際にお茶酌みを要求されたとする。その時点で「テメェで酌めやこのスットコドッコイ」と出がらしの茶葉と熱湯をぶっかけ、茶碗をぶつけてやれば済むことなのだが、それが出来るようなら世話しない、というものである。 その場合、已む無く茶を出さざるを得ない、という状況になってしまうと、それこそが「お茶酌み=仕事=”存在意義”」になってしまう瞬間なのである。つまり、「しなくてもいいことをしたがためにそれが自分の”存在意義の片鱗”になってしまう」瞬間、と言えよう。 ”存在意義”を果たせない者へのペナルティは、信用の低下のみならず自らの立場をも脅かすことにもなりかねない。この事例に於いて私が言いたいのは、「無駄なことは極力避けろ」ということである。 ”連続が起こす慣れ”というものは、一度譲歩してしまえばつけあがる、といった、チンピラやヤクザ、マフィアの常套句のようなものを連想していただければいいだろう。子供でいう、「どこまでやったらキレるのかな」ということである。一度容認してしまえば、どんどんエスカレートしてゆく。自分も一度目こぼしをしたことを翻って批判することは出来ないので黙認してしまう。これでは悪循環だ。 それについての対抗法は、譲れない一線、というものを確保することである。自分の陣を一度張れば、相手は交戦を望まない限り陣には立ち入ってこないだろう。 一握りの勇気とプライドを持て。自分は犬ではないのだから。…というところで、今回の大麻はこれまで。 今日も大麻の煙が目に染みるぜ。 (BGM:Brandnew Armored Core Runs About)
by straycat5121
| 2005-03-05 20:41
| 大麻
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