こいつ何者?
HN:straycat。猫。猫田。bishop等。
1985年11月22日生。B型。 身長177(猫背)。体重秘密。 性格は極度の自己中。内弁慶。 自他共に認める精神病患者。 酒乱。ビール・焼酎・日本酒○。ウィスキー×。 喫煙者。セブンスターを愛吸。 性癖はM。だからラゴデッサに刺されて斬られてカ・イ・カ・ン。 カテゴリ
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人は命を食べている。他の生物を食し、生きる。それは、曲げることのできない節理だ。 だが、人を殺すということは、人を食べるわけではないので許されない行為である。 では、何も食べるものがなくなったとき、目の前に人間がいれば、それを殺して食うことは許されるのだろうか? 人が人を食うことは禁忌であるが、それが当然のように行われていた歴史もある。 呪術的にしろ、なんにしろ、生存の欲求に従って人が人を殺し、食うことは…。これは肯定してはいけないことなのだろうか……? 人が人肉を食うことはこの国の(今日の先進諸国の?)社会的には許されない行為である。だが、人の人生を食って生きる輩は、この世にごまんといる。 誰かを殺すことで自己の存在を確立できる人間がいるとするならば、生存の欲求に従ってそれは許される行為なのではないだろうか? だが、その行為は社会的には許されないことであり、どのようなコミュニティでさえ、それは裁かれてしかるべきなのであろう。 カラスのコミュニティでは、狂って、はたまた病んで同属を襲った者は、弾かれ、省かれ、裁かれて死ぬ。然るに、精神を病み、社会性を失った生き物は遍く死すべきなのだろう。 雲散霧消した、無意味な問いをここに置いてゆこう。 それ自体が答えであり、材料であり、皮肉であり、慟哭であり…。 人は命を食べて生きている。 それは弱いがために、強くあらなければならなかった。 最弱故の最強が恐れたのは、更なる強者の存在。 生きることが当たり前になりすぎている生き物は、敵を恐れていた。 然るに、これは生存競争なのだろう。 狩りに目覚めた野獣と、身を寄せ合う、最強の弱者との。 人間は他者を否定することでしか自己を肯定し得ない。 他と自との境界を見つめなければ、区別ができないなら、それは一個の生物として致命的に劣悪である。 殺人とは、傷害とは、それは方向性を間違った自殺、自傷行為なのではないだろうか? 痛みを恐れるが故に、破滅のイメージを他者に張り合わせてしまう。盲目が生む悲しい事故なのではないだろうか。 人間とはその昔、狩りをして生きる動物であった。その血が、今も私たちに流れているのであれば、これは行き場を失った狩猟本能の行いではないだろうか。 お上品に生き、傷つけることも、穢すことも許されず。先行した知性が振り上げた拳を止める。 順応性の高い人間は人間としての目覚めを終え、狩猟本能は鳴りを潜め、やがてカーストに目覚める。いぎたなく他人を傷つけることによって、血を求める自らを慰めるのだ。 それができない人間は、動物へと身をやつす。 他者の悲鳴を、血を、肉を求め、妄想し、想像し、凶暴性を、野生を、練磨させる。 研ぎ澄まされた牙を持て余し、荒れ狂い、身悶え、渇きに、飢餓に耐えられなくなり、羊を噛み殺す。 獲物は無抵抗なのがいい。強い獲物を狙うなら、練習をしないと。 愛には、傷つける愛がある。幼稚な愛だ。 愛余るが故に、人は苦しみ、狂い、病む。 セックスの衝動は、殺意の衝動と酷く似ている。 ヤりたい。この肉を貪り、快楽を得る。 カマキリのメスは交尾中の、はたまた交尾が終わったオスを食べてしまうのだという。 オスは例え交尾中に頭部を食われてしまっても、交尾を続けるのだとか。 愛という崇高とされている感情の昇華する瞬間、獰猛な悦楽とともに胎内に放たれた種は、願いを結び、形にする。 ほら 。また獣が生まれる。
by straycat5121
| 2005-11-13 05:43
| 雑記
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